他人の発信との付き合い方、の話。

私はこう考える!、の発信よりも、

あなたはどう思う?、の問いかけができる作品と出逢いたい。


身も心もぼろぼろになって、それまでのように、

美術館に行ったり、小説を読めなくなってしまった頃、気づいたのは、

私は考えていた以上に他人がどう考えているかに興味がないということ。

仮にあったとしても、それはあくまでも自分の考えを浮き彫りにするためで、

純粋に他人がどう考えているか、また、その考えを受け入れる気はあまりないのだ。

かつては、受け入れないといけない気持ちで向き合っていたのだけど、

それは疲弊につながる一つの原因だったのかもしれない。

あるいは、そうして受身でいることに心地良さを覚えていたのかもしれない。

ただ今は、自分が何を思い、何に悩み、何にもやもやしているのかに

自分の神経を向けることの方が重要なのだろうなと感じている。

一人一人が抱えるもやもやは、何種類かに分けられてしまうだろうけど、

それでも、みんな同じではないんだなと今更感じている。

だから、人の突然の発信を目の当たりにし、

そのもやもやを自分事のように受け止めてしまうのは危険。

もちろん、自分の意識になかったもやもやの存在を認識することは有意義だと思うけど、

認識する、ぐらいに留めておくのがいいらしい。

昔の私は、相手のもやもやをすべて取り込もうとしていたのだろうなあ。


でも、時に、作品が自分に問いかけてくれることもある。

演劇なんかだと、台詞とか場面という形で時折分かりやすく与えられる。

そういう意味でも、演劇は観客に対して開いている側面があるかもしれない。