体が言葉の意味を教えてくれる、の話。

体調を崩してから2年ほどが経ち、去年から働き始めたりはしてきたけども、

最近ようやく体質が改善され、体の反応が少し変わり始めたように思います。


その変化の一つとして挙げられるのが、

頭で言葉の意味を捉えるのではなく、

体に言葉の意味を教えてもらうことが増え始めたことです。


たとえば、「リフレッシュ」するという感覚は、

字面から意味を考えていたときは、

よくTVのビールのCMで見かけるような「ぷはー」といったものを想像し、

そういった架空の快感を捜し求めていましたが、

実は穏やかで本当にちょっとした心の解放のことだったのです。

その気づきに伴い、前からなんとなく気になっていた

体が開ききってない状態を認識するようにもなりました。

それをどういい方向に持っていけばいいのかはまだ分からないのですが。


最近、体に教えてもらったのは「一体感」という言葉の意味。

結局、体に教えてもらった感覚なので、うまく言語化できないのですが、

一体感というのは、関わっている人々がひとつの大きな円に同化するのではなく、

そこで交わされる意見に何でも同意することでもなく、

みんながなにも同じ方向を向いている必要もなく、

一人ひとりの枠が明確で、居場所が存在している以上の何でもないのだということ。

色々なコミュニティに行くと、そういった一体感を持つ場と、

そうでない場の違いは体の落ち着き具合に表れる。

言語化できない分、人に説明しにくいのだが、

大切な感覚ほど、人と共有しにくいものなのかもしれない。


こうやって振り返ると、私は言葉の意味を大げさに捉えていることが多いのだが、

それらの言葉が示しているものは、実は本当にささやかなものなんだろう。

喜びも、悲しみも、怒りも、哀れみも。

一滴、の感情に過ぎないのだ。

しかし、そんな一滴が全身に及ぼす影響に関しては過小に捉えていたらしい。

その一滴の影響は、想像以上に大きく、大事に見つめてあげるべきものなのだった。

物事の正しい大きさを把握していなければ、体、壊しますよね。


少し話は変わるのですが、昔の体験話。

2年前の春、ある日突然、直島へ向かいました。

そして、高松に着き、バスに揺られている時から、

その前日にお会いした人との会話の中で感じた自分の心の違和感について

じわじわと想いが体を侵食していきました。

そして、直島に着いたとともに入ったカフェで、

私はカレーライスを注文するや否や、ノートを出し、

今考えていることを綴り出し、わずか10分弱で一つの作品が完成しました。


ほとんど表現活動をしたことがない私にとっては、

それは奇跡に近いような体験でした。

少しずつもやもやが育っていたあの感覚も、

直島に降り立ち、青い空の下で潮風を浴びた瞬間、

体が驚くほどに解放されたあの感覚も、

そして、その二つが合わさり、ノートを目の前に宿ったあの集中力も、

体が鈍い私にとっては、稀なことでした。


ただ、これを書いている今日気づいたのは、

もし、あの感覚が神様からの贈り物ではなく、

自分の体の反応次第で、従来もっと頻繁に体験できるものなのだとしたら、

そうなれていない自分はとてももったいない日々を送っていると思う。


さび付いた体のアンテナを調律したいな。