名を与えるという愛情、そして息苦しさ、の話。

今日からドラマトゥルクについて考える講座に参加し始めた。

ドラマトゥルクとは何であるか。

そのことを深く考えてみる講座なのだが、これは演劇界の用語であり、

作品と観客を、演劇と社会を、古典と現代(など)をむすぶ立ち位置を指す。

これからどういった存在なのかじっくり考えていくことになりそうです。


今日感じたのは、ドラマトゥルクに限らず、

『○○=こういうもの』だと定義することには慎重にならないといけない。

そもそもは、ドラマトゥルクという名を持つ前から、

その役割は存在していて、便宜上(と言っていいのか分からないが)、

その役割に名を、枠組みを与え、その立ち位置の存在を共有してきた。

しかし、今度はその名の存在に引っ張られるかたちで、

その名前の中身(定義)が何であるか考えるということに違和感を覚えた。

それを皆の前で言ってみたのだけど、うまく伝わっただろうか。


あるいは、その定義を"言語化"することに不思議な感覚を覚えたのだろうか。

かつては、私も何でも言語化することに重きを置いていた。

おそらく、その名残は今でも強く残っているはず。

だからこそか、そういう自分の癖にブレーキをかけるかたちで、

今は"感覚的"に知ることを重視しているのかもしれない。


もちろん、具合を悪くして、以前のように発話できなくなったことも

大きく起因しているだろう。

前々回の投稿で書いた体が言葉の意味を教えてくれるようになったことが。


名前を与えるという行為。

それは、あなたの存在に気づいているよ、という愛情のしるしでもあり、

(この場合、作品と観客をつないでくれているんだね、という気づき)

それと同時に、その行為のまわりに柵を立てるような息苦しさもある。

ただ、柵を設けることが決して悪いことなわけではなく、

その柵はとっても柔軟でくねくねしている柔らかいものであっていいのに、

つい、頑丈な柵をイメージしてしまうその思考を改めればいいのだ。

ただ、たとえ柔軟でくねくねしていても、柵であることには変わらない。

そのバランスが難しい。


それにしても、このドラマトゥルクに関する参考文献に記された、

<意識としてのドラマトゥルギー>を考えるという提案には同感する。

極端な話だが、一人ひとりが上記の感覚をイメージすることができれば、

ドラマトゥルクを名乗る人は一人もいなくなり、ひょっとしたら

それこそが最も理想的な状況なのではないだろうか。

目に見えないだけで、しっかり浸透している状態。

イメージするだけで、ぽかぽかと体温を感じる心地よい状況だなあ。


一人ひとりの立場から実践できるドラマトゥルクとは。

この考え方、他の役割でも応用できる考え方だなあ。