何も映してはくれない目、の話。


写真撮影OK、な写真の展覧会へ足を運びました。


まだうまく言葉に託せないので、
図録に寄稿されていた文章などを
ひとつにまとめる作業に取り組んでいます。


写真を被写体として見つめ、
レンズ越しに作品を鑑賞する体験。


写真にカメラを向けることで、
その作品の中の被写体もまた、
理策氏からこうやって
レンズ越しに見守られていたのだと、
身体感覚をもって追体験する。



はやる気持ちでシャッターを切り、
わくわくしながら確認画面を覗くと、
そこには自分の目がつかまえた景色は
絶対に写ってはいないのだけれど。
人の目と機械の目のズレ、があるから、
理策氏は写真を楽しいと思うのだと言う。
「こうだった」よりも「こうじゃなかった」の方が。



自分が今、目にした瞬間を残したい、
人に見せたいと時間の流れに逆らい、
シャッターを切る人間には、
写真が残してくれた光景を、
自分が見たイメージとのズレを、
受け入れる、そんな作業が求められる。
人は都合のいいものしか見ないから。
見えないものはいつまでも見えない。



見ているつもりでも、見えていないのだ。
分かっているつもりでも、分かっていないし、
出逢っているつもりでも、出逢っていないのだ。


私達は何も知らないし、何も得ていない。



大江健三郎氏は自身のエッセイで、
幼少期に、ふと植物は際限なく
小刻みに揺れ続けている事実を
発見し驚愕したときのことを、

それは、こちらがいつもよく見ていなければ
すべてがなんでもないもの、つまりは死んだものだった。

と綴っていた。


私達は見ているつもりでも、見えていないのだ。



一方で、理策氏は、
ほんの僅かな変化は、
本当に大事な変化は、
ぼおっとしか見えてこないと言う。
こちらから見に行ったら、
見えてこないのだと言う。


理策さんは今回の展覧会において、
たくさんの言葉を残している


二人が言っていることは
最終的には同じなのだろう。
私にはまだそれが分からないけれど。



私はまだその手前にいて、
対象を理解したり、
掴み取ろうとしたりしてしまう。


そういう向き合い方ではなく、
その対象とひとつになろうと、
境界線をぼやかし、自分を溶かし、
相手を迎え入れるような佇まいを
身につけたいと作品を眺めながら考えた。