雷の音をトリガーに、の話。

昨日は久し振りに雷が鳴った。


今年も異常気象による悪天候に苛まられた日本だが、
そんな異常さも、ここ数年は当たり前になっていき、
もっと言えば、夏の大雨や秋の台風の異常さは、
もはや季節の風物詩であり、
何も今年はじまったものでもないのに、
毎年「今年はすごいね」と暑中お見舞いのような
形式的な感想を飽きることなく胸に抱かせてきた。


そんな日本の異常気象化のように、
今始まったことのように思えても、全ての事は
自分たちが生まれる前から始まっている。
そんな当然のことをつい忘れ、
自分が知っている範囲の歴史を紐解き、
今の社会が抱える問題の謎解きをしようとする。
(これは皆という意味ではなく、私が)


当然だけれど、根深い問題であればあるほど、
そんな捜査だけでは核心にはとても辿り着けず、
言わば無駄なエネルギーの使い方をして疲弊する。


自分が把握できる以上の時の流れを覆った
様々な事象とその歴史は、
どんなに想像力を働かせても、働かせても。
想像力の無力さをまた感じてしまう。


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昨日は久し振りに雷が鳴った。
その中で、反対派の人も賛成派の人も
雷の音に対抗するかのような轟きを見せていた。


その轟音を反復させるばかりで、
視聴者にその波動を放り投げる。
これまた自分が知る以上に昔から
一向に変わらないマスコミの報道に
身体を晒し続けている。
どんなにネットを絶ち、
テレビやラジオを切っても、
そういう報道の存在を勝手に感知し、
それらの熱量を取り込んでしまう自分がいる。


それらの強い衝撃を受けたあたしの身体は、
それらを受け止めるキャパがないからか、
その強烈な刺激が引き金になっているからなのか、
震災時の自分の状況を痛烈に思い出してしまう。


あの当時の身体が受けた恐怖や焦燥感や虚無感が、
際限なく呼び起こされてしまい、
目の前で起きていることが持つパワーと
自分の内なる部分で膨れ上がる過去の傷が
呼吸をつうじて出逢ってしまう。


そんなにも心ここにあらずでいいのか戸惑い、
反対派が闘争する場にも、
賛成派が奮闘する場にも足を運んだ。
(どちらも自分の立場や仲間、
 そして日本の明るい未来を信じ、
 全身全霊を尽くしていたことが伝わった)


それでも吹き出てくる震災時の
フラッシュバックが止まらず、
そんな自分を受け入れるところから
始めざるを得ないと落ち込んだ。



この文章には続きがあるのだけれど、
その続きを言葉に出来るのはもう少し先になるだろう。
今出来ること、今綴れることをひとまず記す。