マチルダは20年何一つ変わらず、の話。

21年前の9月14日、その映画は封切になりました。



日本では1995年の春に公開されたようなので、
私を含む日本でご覧になった方にとっては、
今年は『レオン』20周年の年になります。


『レオン』は、私がはじめて好きになった映画。
チルダは、私がはじめて恋をした女の子。


記念日である14日から数日遅れて、
20年ぶりにスクリーンで観てきました


映画を「難しく」観てしまう時期を少しずつ抜け、
改めてこの映画のまっすぐな魅力と向き合うと、
20年間潜り続けたトンネル、の入り口に戻ってきた気分に。


それと同時に、その入り口は、
かつて自分が立っていた場所とは
似ても似つかないように見えてしまい、
目を擦らずにはいられませんでした。


というのは、レオンが言う人生の辛さも、
チルダが言う愛か死しか望まないという姿勢も。
20年前に比べ、セリフが頭で処理できてしまう分、
彼らが話す内容の本質に触れそうになる寸前で
落下してくるセリフや言葉に阻まれ、
その深いところに辿り着けていないような気持ちに。


少なくとも、当時マチルダより幼かった私は、
彼らの言動の意味が全く分かっていなかったけれど、
この映画が大好きであることを疑う由もありませんでしたから。
そういう意味では、その当時の自分の方が
『レオン』と自然に付き合えていたのかもしれません。


人は年を重ね、時を駆け抜けるとともに、
色々な物事を蓄え、備え、会得するように錯覚しますが、
実際は何かを得る時には、何かを手放しているのでしょう。
人の包容力は思っているほどは成長しないし、制限もありますから。


幼い私をぐぐんと惹きつけた『レオン』の引力も、
気付けばどこかで何かを拾ったタイミングで
置いていくことを決めていた類の美しさだったようです。


それでも、こうやって20年を経て、
自分がこれほどまでにも素敵なものを
かつては身につけていたのだと、
思い出させてくれるだけで恵まれていると思います。



一方、20年前も今も
(当然ですが)変わらずに展開してくれる名場面も多く、
小学生の私が見たら驚くほどに号泣してしまいました。


時間の圧力に屈することなく、これまでも、これからも。


チルダは20年間、何一つ変わることなくここに。



20年前なら言葉を介さず本質をつかめたはずのあれも、
20年前も今も同じ瞬間に心が奪われるそれも、
映画の外にも、映画の中にも、これらは潜んでいる。



そんなことを、20年という記念年にあやかったり、
はるばる遠方の映画館に遠足に行き、
朝一の映画という魔法の力を借り、
大スクリーンを埋め尽くすマチルダの表情を観なければ
気付けないなんて、と少し自分を情けなく思いながら、
でも、またこの作品を大スクリーンで観たいと思う日を心待ちしながら。




(ちなみに、スクリーン越しでは20年ぶりですが、
 この20年の間におそらくDVDで一度鑑賞しているはずです。
 ただそれが本当に起きた出来事なのか、
 それがいつだったのか、その時どう感じたのかは
 どういうわけかまったく覚えていなく。
 それもまたこの作品との妙なつながりを演出しているのでした。)